チュルリョーニス展で、ひとつの絵の前から動けなくなった。
《レックス》という作品だった。
画面の中央に立つ巨大な存在と、その足元に置かれた小さな地球。
その大きさの落差を見たとき、どこかで自分の中の尺度が、少しだけ外れる。
それまで見ていた風景も、聴いていた音も、
すべてがその感覚に向かって準備されていたようにも思える。
あのとき、自分は何を見ていたのだろうか。
チュルリョーニス展で、音が空間になっていく
展示室に入ってすぐ、少しだけ違和感があった。
音楽が流れている。
けれど、それは単なるBGMというより、空間の一部のようだった。
絵の中には、「フーガ」や「プレリュード」といった名前がついている。
音楽の形式の名前。


それを知識として理解する前に、
まず、画面の中で何かが繰り返され、重なり、少しずつ形を変えていく感覚があった。
同じようなモチーフが、違う場所に現れる。
遠くにあったものが、近くにも現れる。
それは時間の流れというより、
空間そのものがゆっくりと呼吸しているようだった。
音を聴いているのか、絵を見ているのか。
その境界が、少しずつ曖昧になっていく。

《第6ソナタ(星のソナタ):アンダンテ》

《第6ソナタ(星のソナタ):アレグロ》
チュルリョーニスが音楽と絵画を行き来していたという説明は後から知ったけれど、
その前に、すでに身体のほうが理解していた気がする。
風景が神話になるとき、距離が曖昧になる
さらに奥に進むと、風景が少しずつ現実から離れていく。


山のようでいて、建築のようでもある。
空のようでいて、海のようにも見える。
どこまでが現実で、どこからが想像なのか。
その境界がはっきりしない。





人の姿も、小さく現れることがあるけれど、
それが「そこにいる存在」なのか、「象徴として置かれているもの」なのか、判断がつかない。
神話の中の風景を見ているようで、
同時に、自分の記憶の奥にある景色にも似ている。
距離感が揺れる。
近いのか、遠いのか。
大きいのか、小さいのか。
その曖昧さが積み重なっていくことで、
現実のスケールに対する感覚が、少しずつほどけていく。
《レックス》で、世界の大きさが壊れる

そして、《レックス》の前に立つ。
そのときには、すでに準備が整っていたのかもしれない。
巨大な王のような存在。
その足元に置かれた、小さな地球。
あまりにも明確な、大きさの落差。
けれど、それを「対比」として理解する前に、
まず感覚として、何かが崩れる。
自分が普段使っている「大きい」「小さい」という基準が、
通用しなくなる。
その瞬間、
自分がどこに立っているのか、少しわからなくなる。
恐怖というよりも、
もう少し静かな、広がっていくような感覚。
宇宙的な畏怖、という言葉が近いのかもしれない。
ただ、それもあとから付けた言葉で、
実際には、もっと言葉にならない何かだった。
しばらく、その場から動けなかった。
外に出たあと、東京の光が少し変わっていた
展示を見終えて、外に出る。

目の前には、東京文化会館がある。
いつも見ているはずの建物なのに、
その日は少し違って見えた。
窓のひとつひとつが、
夜の空気を受けて、静かに光っているように見える。
あとから思い出すと、
あの建物は上野の森や夜空を取り込むように設計されているらしい。
国立西洋美術館との関係性や、床の模様とのつながりもあるという。
けれど、そのときは、そうした知識よりも先に、
ただ「少しきらめいている」と感じた。
展示の中で見た星の光と、
目の前の建物の光が、どこかでつながっているようだった。
世界の見え方は、静かにずれていく

何かが劇的に変わったわけではない。
けれど、
もともとあったものの見え方が、少しだけ変わる。
音が、空間のように感じられたり、
遠くのものが、急に近くに感じられたり。
そういう小さなずれが、
あとからゆっくり効いてくる。
チュルリョーニス展で見たものは、
絵や音楽だけではなかったのかもしれない。
自分の中にある、
世界の捉え方のほうだったのかもしれない。
展覧会情報
展覧会名
チュルリョーニス展 内なる星図
開催期間
2026年3月28日[土]-6月14日[日]
開館時間
9:30~17:30(毎週金・土曜日は20:00まで)
※入館は閉館の30分前まで
休館日
月曜日、5月7日[木](ただし、3月30日[月]、5月4日[月・祝]は開館)
会場
国立西洋美術館
展示会公式サイト
https://2026ciurlionis.nmwa.go.jp/

公式図録で深まる、チュルリョーニス展「内なる星図」の魅力
展覧会を見終えたあと、もう一度チュルリョーニスの作品に触れたくなり、改めて会場を訪れて公式図録を購入した。

深い緑と金色の装丁が美しい上製本。
「チュルリョーニス展 内なる星図」の公式図録は、作品を記録するための資料というだけではなく、展覧会で受け取った感覚を、もう一度ゆっくり身体の中に戻していくような一冊だった。
表紙は、深い緑とあたたかな金色を組み合わせた上製本。
そこに小さく箔押しされた文字と星のような点があり、手に取った瞬間から、展示室で感じた静かな宇宙感が続いているように感じた。
図録には、国立M. K. チュルリョーニス美術館が所蔵する絵画、版画、素描など約80点の図版が収録されている。さらに、専門の研究員や学芸員による論考も掲載されており、チュルリョーニスの作品を「幻想的な絵」として眺めるだけでは見えてこない背景まで、丁寧に辿ることができる。
音楽家としての感性が、絵画の構造になっている
図録を読んで改めて印象に残ったのは、チュルリョーニスが単に「音楽的な絵」を描いたのではなく、音楽の構造そのものを絵画の中に移し替えていたということだった。
《フーガ》や《プレリュード》、そして《ソナタ》と名づけられた作品群。
それらは、音を絵に置き換えたというより、反復、変奏、重なり、テンポのようなものが、画面の中で静かに進行している。
展覧会場で見たとき、音が空間になっていくように感じた。
その感覚は、図録を読んだあとで、よりはっきりした輪郭を持ちはじめた。
チュルリョーニスは、作曲家としての感性と画家としての視覚表現を分けるのではなく、ひとつの創造回路の中で結びつけていたのだと思う。
絵画の中に時間が流れ、音楽の中に風景が立ち上がる。
その境界のなさこそが、チュルリョーニスの作品の大きな魅力なのだと感じた。
《レックス》は、図録で見返してもなお大きい

会場で最も強く心をつかまれた《レックス》も、図録の中で改めて見返すことができる。
もちろん、実物の前に立ったときの圧倒的なスケール感は、その場でしか味わえない。
けれど、図録で見返すことで、作品の構造や細部、色の重なり、中央に立つ巨大な存在と足元の地球との関係を、落ち着いて辿ることができた。
会場では、ただ感覚として「大きさの基準が壊れる」と感じていた。
図録を読むことで、その感覚の奥に、宇宙、精神性、神話、リトアニアの文化的背景が重なっていたことが少しずつ見えてくる。
《レックス》は、ただ巨大な王を描いた作品ではない。
人間の尺度を超えたもの、世界を包み込むようなもの、宇宙的な秩序のようなものに触れさせる絵なのだと思う。
リトアニア近代文化の背景を知ることで、作品の奥行きが変わる
チュルリョーニスの作品は、個人の幻想だけで生まれたものではない。
図録には、彼がリトアニア近代文化の形成において重要な存在であったことや、当時の文化的背景についても詳しく紹介されている。
それを知ると、作品の中に現れる森、星、海、塔、山、祭壇のようなモチーフが、単なる夢の風景ではなく、土地の記憶や民族的な精神性ともつながっているように見えてくる。
神話の中の景色のようでありながら、どこか懐かしい。
遠い宇宙のようでありながら、人間の内側にもある。
チュルリョーニスの作品が不思議なのは、その両方を同時に感じさせるところだ。
外の宇宙を描いているようで、実は内側の星図を描いている。
だからこそ、この展覧会のタイトル「内なる星図」は、とても深く響く。
チュルリョーニス展の公式図録は、鑑賞後にこそ読みたい一冊
「チュルリョーニス展 内なる星図」の公式図録は、展覧会の予習として読むのもいいと思う。
けれど、個人的には、鑑賞後に読むことでより深く届く一冊だと感じた。

展示室でまず身体が受け取ったもの。
言葉になる前の感覚。
音が空間になり、風景が神話になり、世界の大きさが少しずれるような体験。
そのあとで図録を開くと、作品の背景や構造、チュルリョーニスという芸術家の歩みが、ゆっくりと感覚に追いついてくる。
展覧会で心に残った作品をもう一度見返したい人。
チュルリョーニスの絵画と音楽の関係を深く知りたい人。
リトアニアの芸術や象徴主義、神話的な世界観に惹かれる人。
そういう人にとって、この公式図録は、展覧会の余韻を長く手元に残してくれる一冊になると思う。
創作が止まるとき、自分の声に戻る時間を。

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