杉本博司「絶滅写真」感想|東京国立近代美術館で、ずっと海の中にいた

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東京国立近代美術館で開催中の「杉本博司 絶滅写真」を観てきた。

展示を出た直後に残っていた感覚は、とても静かなものだった。
ずっと海にいたような気がした。

美術館に行って、作品を観て、順路に沿って歩いて、説明を読む。
いつもならそういう「鑑賞した」という感覚がある。

けれど今回は少し違っていた。

どこかで時間の感覚がなくなっていた。
自分がどれくらいその場所にいたのか、よくわからない。
ただ暗い展示室の中で、写真に囲まれながら、海と光と死生観のようなものの中に沈んでいた。

目次

杉本博司「絶滅写真」について

「杉本博司 絶滅写真」は、東京国立近代美術館で開催されている杉本博司の大規模個展。

本展では、杉本博司の原点である銀塩写真を中心に、初期から現在までの作品が紹介されている。

会場では、代表的なシリーズである〈ジオラマ〉〈劇場〉〈海景〉をはじめ、〈建築〉〈スタイアライズド・スカルプチャー〉〈放電場〉、そして光そのものを扱うような〈Opticks〉まで、杉本博司の時間をめぐる思考がひとつの流れとして立ち上がってくる。

タイトルにある「絶滅」という言葉は、単に何かが終わるという意味だけではないように感じた。

銀塩写真という技術の終わり。
映画館という場所の終わり。
人類の記憶の終わり。
あるいは、僕たちが「見ている」と信じているものの終わり。

そんな複数の終わりが、展示室の中で静かに重なっていた。

ずっと海にいた

いちばん長くいたのは、やはり〈海景〉の部屋だった。

〈海景〉は、水平線を境に、上半分に空、下半分に海が写されている。
人や建物や船のような、場所や時代を示すものは写っていない。

ただ海と空がある。

それだけなのに、しばらく見ていると、自分が写真を見ているのか、海の前に立っているのか、だんだんわからなくなってくる。

不思議だったのは、感動したとか、圧倒されたとか、そういう言葉があまり出てこなかったことだ。

何も考えなくなった。

良い作品を観たとき、頭の中で言葉が増えることがある。
これは何だろう。どういう意味だろう。どこが好きなんだろう。自分ならどう描くだろう。

けれど〈海景〉の前では、そういう言葉が少しずつ消えていった。

残ったのは、水平線だけだった。

そして、たぶん自分の呼吸もその水平線に近づいていた。
波の音が聞こえるわけではない。写真は静かに壁に掛かっているだけだ。
それでも、展示室の中にいるというより、ずっと海の中にいたような感覚があった。

床に反射した写真の方が、心に近かった

〈海景〉の部屋で、ふと床を見た。

暗い展示室の床に、壁に掛けられた写真が反射していた。
光をまとった四角い写真が、床の上にもう一度、ぼんやりと現れていた。

その瞬間、少しだけ心が動いた。

本物の写真より、床に反射した写真の方が、自分の心が見ている景色に近い気がした。

壁の作品は、あくまでも作品としてそこにある。
額装され、照明を当てられ、鑑賞されるものとして、きちんと存在している。

でも床に映った写真は、少し違っていた。

輪郭がゆるんでいる。
光がにじんでいる。
作品でありながら、作品から少し離れている。
見ようとして見たものではなく、ふいに目に入ってきたものだった。

プロセスワークでは、こういう何気なく引っかかるものを「フラート」と呼ぶことがある。

強い主張ではない。
でも、なぜか気になる。
こちらを呼んでいるような小さなサイン。

僕にとって、この展示でいちばん心に残ったのは、壁に掛かった写真そのものだけではなく、床に反射した〈海景〉だったのかもしれない。

それは、自分の内側の景色のようだった。

はっきりした海ではない。
明確な答えでもない。
ただ、暗がりの中にぼんやりと浮かぶ水平線。

自分の心は、こういう景色を見ていたのかもしれないと思った。

廃墟となった劇場に映る、白い光

〈劇場〉のシリーズも、とても印象に残っている。

杉本博司の〈劇場〉は、映画一本分の上映時間、カメラのシャッターを開け続けることで撮影された作品だという。
映画の物語や人物や場面は、すべて長時間露光の中で消えていき、最後にはスクリーンの白い光だけが残る。

この白い光が、とても強かった。

特に廃墟となった劇場の写真の前では、何かが終わった後の場所に、まだ美しさが残っているように感じた。

かつて人が集まり、椅子に座り、スクリーンを見つめ、笑ったり泣いたりしていた場所。
そこに映っていたはずの無数の映画。
その物語はもう見えない。

けれど、写真の中には白い光が残っている。

映画の内容は消えている。
人の気配も、時間の流れも、劇場の繁栄も、ほとんど失われている。
それでもスクリーンだけが、異様に明るい。

終わった場所にまだ残っている美しさ。
絶滅したものの中に残る記憶。
あるいは、記憶が消えた後に残る光。

僕はその白さを見ながら、ここに映っていた映画のことを考えていた。

どんな物語だったのだろう。
誰が観ていたのだろう。
その人たちは今、どこにいるのだろう。

でも、写真は何も答えない。

答えないまま、ただ白く光っている。

その沈黙がよかった。

「絶滅」という言葉の静けさ

「絶滅」という言葉は、強い。

恐竜の絶滅。
種の絶滅。
文明の絶滅。
技術の絶滅。
人類の絶滅。

どうしても大きな終末のイメージがつきまとう。

けれど、この展示で感じた「絶滅」は、破滅的なものというより、もっと静かなものだった。

何かが終わる。
何かが消えていく。
けれど、消えたものは完全になくなるわけではない。

剥製は写真の中で生きているように見える。
映画は白い光として残る。
海は何億年も前からそこにあるように見える。
光は色になり、写真になり、またこちらの目に届く。

終わりは、ただの終わりではないのかもしれない。

消えるものがあり、残るものがある。
残ったものも、いつか変わる。
その変わり続ける時間の中で、写真は一瞬を止める。

でも、それは本当に一瞬なのだろうか。

杉本博司の写真を見ていると、写真が「瞬間を切り取るもの」ではなく、「時間そのものに触れる装置」のように感じられてくる。

そこに写っているのは海であり、劇場であり、光でありながら、同時に、こちらが普段は見ないようにしている時間の層でもある。

最後に現れた《Opticks》の光

展示の終盤にあった〈Opticks〉も印象的だった。

モノクロームの静かな世界を歩いてきた後に、突然、青や黄色や赤の色面が現れる。

それは派手というより、光そのものがそこに立ち上がっているようだった。

〈Opticks〉は、京都市京セラ美術館のリニューアルオープン記念展「杉本博司 瑠璃の浄土」でも展示されていたシリーズだ。
当時、その展示には行きたかったけれど、予定が合わず行けなかった。

だから、今回の「絶滅写真」で思わぬかたちで出会えたのは嬉しかった。

ずっと観たかったものに、別の場所でふいに会えたような感覚があった。

それまでの展示では、白黒の世界の中で、時間や記憶や死生観のようなものに触れていた。
その最後に、色が現れる。

青。
黄色。
赤。

ただの色ではなく、光が色として現れているようだった。

モノクロームの展示の果てに、色彩が戻ってくる。
けれどそれは、明るい救いというより、もっと無言の現象に近かった。

世界にはまだ光がある。
でも、その光に意味を与えるのは、たぶんこちら側なのだと思う。

写真ではなく、自分の心の景色を見ていた

今回の展示を振り返ると、僕は杉本博司の写真を観に行ったはずなのに、途中から自分の心の景色を見ていたような気がする。

特に〈海景〉の部屋で、床に反射した写真を見たとき。
あれは、作品鑑賞というより、自分の内側にある静かな場所を見つけた感覚に近かった。

暗い部屋。
壁に掛かる海。
床ににじむ光。
何も考えなくなる時間。

そこには、わかりやすい感動も、明確な結論もなかった。

ただ静かだった。

ずっと海にいた。
時間の感覚がなくなった。
死生観のようなものが、言葉になる前の場所で揺れていた。

「絶滅写真」というタイトルを聞いたとき、もっと強い展示を想像していた。
終わりや喪失を突きつけられるようなものを想像していた。

でも実際には、もっと深く、もっと静かだった。

何かが終わっても、光は残る。
記憶が消えても、海はある。
映画の物語が消えても、スクリーンには白が残る。
そして、その白や海や光を見ている自分の心もまた、どこかに反射している。

展示を出た後も、まだ少し海にいた。

言葉にしようとすると、すぐに逃げてしまう。
だから今は、無理に結論を出さずに、そのまま置いておきたい。

暗い床に映った、ぼんやりとした水平線のまま。

展覧会情報

杉本博司 絶滅写真
HIROSHI SUGIMOTO: EXTINCTION

展覧会名
杉本博司 絶滅写真
HIROSHI SUGIMOTO: EXTINCTION

開催期間
2026年6月16日(火) – 9月13日(日)

開館時間
10:00~17:00(金曜・土曜は10:00~20:00)
入館は閉館の30分前まで

休館日
月曜日(ただし7月20日は開館)、7月21日

会場
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー

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