別々の場所で考えたことが、あとから点線のようにつながり始めた。
先日は「プロセスワークとトラウマ」という講座に参加した。
そして今週、日本プロセスワークセンターから基礎コースの修了証が届いた。
映画『急に具合が悪くなる』を観た。2回目だった。
世田谷美術館では「MEMORIES OF WEST AFRICA ふたりのアフリカ、手仕事の宇宙」を観た。
それぞれまったく違う場所で、違うものに触れていたはずなのに、振り返ってみると、自分の中ではどこかでつながっている。
「内」と「外」
『急に具合が悪くなる』を観ていて、何度も劇中に出てきたのが「内」と「外」だった。
何かの内側にいる人がいて、その外側に置かれる人がいる。
都市と地方。
豊かさと貧しさ。
人間と自然。
劇中では、資本主義がその内側を維持するために「外部」を必要としてきた、という話も出てくる。
内側にいると、その便利さや豊かさを支えるために、外側で誰かや何かが引き受けているものは見えにくい。
そして仕事の中でも、時間や体力やプライベートまで差し出しながら、それでも構造そのものはなかなか変わらない。
人間には知性がある。
精神がある。
身体がある。
けれど、効率や役割や生産性だけで人を見るようになると、その当たり前のことが抜け落ちていく。
映画を観ながら、「人間としての尊厳」という言葉が頭に残った。
頭だけでは、人間を捉えられない
少し前まで、プロセスワーク(プロセス指向心理学)の基礎コースに通っていた。
そこでも、人間を頭だけで捉えない。
語られていることだけではなく、感情や身体感覚、まだ言葉になっていない反応を見る。
頭では「大丈夫」と思っていても、身体が固くなっていることがある。
考えていることと、感じていることが一致しないこともある。
人間には、言葉や思考だけでは捉えきれないものがある。
先週参加した「プロセスワークとトラウマ」でも、頭で理解することと、実際に身体で起きていることは必ずしも同じではなかった。
そんな週に、基礎コースの修了証が届いた。
一区切りではある。
けれど、何かを「理解した」というより、人間というものを簡単に説明しなくなった、という方が近いのかもしれない。
暮らしの中で、分かれていないもの
そして世田谷美術館で観た「MEMORIES OF WEST AFRICA ふたりのアフリカ、手仕事の宇宙」。
ひょうたんの器。
草を編んだかご。
土器。
布。
革。
ビーズ。
太鼓。
会場には、人の声や歌も流れていた。
ひょうたんは器にもなり、楽器にもなる。
草を編み、土を焼き、布を織り、染める。
身につける。
食べる。
働く。
音を鳴らす。
展示を見ながら、身体と手と自然と文化が、それぞれ別々のものとして存在しているのではなく、暮らしの中でつながっているように感じた。
音楽も、暮らしから切り離されたものではなく、そこにある。
もちろん、そこに資本主義が存在しなかったという話ではない。
展示されていたガラスビーズの背景には、ヨーロッパとの交易や奴隷貿易の歴史もある。
それでも僕には、効率や生産性や数字だけでは測れない豊かさが、そこにあるように思えた。
分けることで、見えなくなるもの
映画と、プロセスワークと、西アフリカの手仕事。
同じことを語っているわけではない。
無理につなげる必要もないと思う。
ただ、今週の僕の中では点線でつながっている。
映画では、人間が役割や生産性だけで扱われてしまうことを考えた。
プロセスワークでは、人間は思考だけではなく、感情や身体も含んでいることに触れた。
西アフリカの手仕事を見ながら、器、仕事、身体、自然、音楽、文化が、暮らしの中でつながっているように感じた。
人間も、暮らしも、わかりやすく分けることで理解しやすくなる。
けれど、分けることで見えなくなるものもあるのかもしれない。
人間を、役割だけにしないこと。
頭だけにしないこと。
生産性だけにしないこと。
人には心があり、身体があり、手があり、誰かとの関係があり、暮らしがある。
その全部を含めて、人間なのだと思う。
豊かさとは何なのか。
人間として生きるとはどういうことなのか。
答えはまだわからない。
今週は、別々の場所から、同じ問いを渡されたような気がしている。















