どうしても嫌いな人がいる。「許せない」という感情の奥にあるもの

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※映画『オアシス:ドント・ルック・バック・イン・アンガー』の内容に触れています。

まさか、オアシスで泣く日がくるとは思わなかった。

映画『オアシス:ドント・ルック・バック・イン・アンガー』を観た。

「Live Forever」や「Don’t Look Back in Anger」。

昔から何度も聴いてきた曲なのに、スクリーンの中で鳴っているそれを聴きながら、涙が出た。

映画そのものもよかった。

再結成したオアシスをただ追いかけるのではなく、長い時間の中で、その音楽が人や街とどう関わってきたのかが描かれていた。

そして、何より印象に残ったのが、ノエル・ギャラガーの言葉だった。

自分の欠点について語る中で、人を許せないところがある、という趣旨のことを話していた。

僕はその言葉の内容以上に、ノエルがそんなことを自分の言葉で話していることに驚いた。

ギャラガー兄弟は昔から、インタビューでも大口を叩くし、リップサービスも多い。どこまで本気なのか分からない言葉も含めて、彼らだった。

でも、この映画の二人は少し違った。

「あの頃」のオアシスをもう一度演じているのではなく、いろいろなことがあって、歳を重ねて、それでも再び同じステージに立っている、今のギャラガー兄弟だった。

変わったものはたくさんある。

何度離れても、どこかで彼らは「俺たち」として存在していた。

それでも、ずっとWeだったんだと思う。

目次

どうしても嫌いな人がいる

僕にも、どうしても嫌いな人や、許せないと思う相手がいる。

もう関わっていなくても、ふと思い出して腹が立つ。

できれば二度と関わりたくない。

言われたことや、されたことを、なかったことにもしたくない。

普段は何ともなく過ごしているのに、何かをきっかけに記憶が戻ってきて、当時の感情まで一緒に湧き上がってくることもある。

職場だったり、友人だったり、家族だったり。

人間関係の中には、時間が経ったからといって簡単には消えないものがある。

そんなとき、

「もう忘れたほうがいい」

「いつまでも怒っていても仕方ない」

「許したほうが自分のためだ」

と言われることがある。

でも僕は、無理に許さなくてもいいと思っている。

許すことと、忘れることは違う。

許すことと、されたことを肯定することも違う。

もう一度好きになる必要もないし、以前の関係に戻る必要もない。

距離を取ることで、自分を守れる関係もある。

ただ、「許せない」で終わると見えなくなるものもある

一方で、「嫌い」「許せない」という言葉だけで感情をまとめてしまうと、見えなくなるものもある。

ある人が、

「一度嫌だと思った相手には、もう二度とチャンスを与えない」

と話していたことがある。

何かひとつ許せないことがあると、その人のすることすべてが嫌になる。

その出来事とは関係のない場面でも、普通に接することが難しくなるという。

もちろん、本当に関わらないほうがいい相手もいる。

だから、距離を取ること自体が問題なのではない。

ただ、一度「あの人は嫌いな人」と固まると、その人の別の側面が目に入りにくくなることもある。

そして相手がもう目の前にいなくても、その人への怒りが何度も自分の中で再生される。

そのとき、少し違う見方もできる。

相手が何をしたのかということと、その出来事に対する反応が今も自分の中で続いていることは、分けて見ることができる。

相手に問題がなかったことにするわけではない。

自分が悪かったことにするわけでもない。

ただ、

「自分の中では今、何が起きているんだろう」

と見てみる。

「嫌い」「許せない」は、感情につけた名前でもある

たとえば、「嫌い」という言葉が出てきたとする。

でも、その中身はいつも同じとは限らない。

悔しい。

悲しい。

怖い。

馬鹿にされた気がした。

大切に扱ってほしかった。

本当は謝ってほしかった。

もう二度と踏み込んでほしくない。

離れたい。

言い返したい。

「ふざけるな」と叫びたい。

いろいろな感情や衝動が混ざったものを、僕たちはひとまず「嫌い」と呼んでいるのかもしれない。

だから、「なぜ自分はこんなに嫌いなんだろう」と頭だけで理由を探すのではなく、もう少しその反応そのものを見てみる。

その人を思い出したとき、身体はどうなるのか。

胸が詰まる。

身体が固くなる。

熱くなる。

距離を取りたくなる。

押し返したくなる。

そこには、自分が何を嫌がっていて、何を守ろうとしているのかを知る手がかりがあることもある。

怒りの奥に、傷つきがあるかもしれない。

境界線を越えられた感覚があるかもしれない。

本当は大切に扱ってほしかった、という願いがあるかもしれない。

あるいは、単純に「もう近づかないでくれ」という強い生命力がそこにあるのかもしれない。

何があるのかは、最初から決めなくていい。

「嫌い」という感情をなくそうとするのではなく、その感情が実際に自分の中でどんなふうに起きているのかを知っていく。

それだけでも、見えるものは少し変わる。

許すことをゴールにしなくてもいい

そう考えると、人を許すこと自体をゴールにしなくてもいいのだと思う。

いつか許せるかもしれない。

ずっと許せないかもしれない。

時間が経って、

「もうどうでもいい」

と思う日が来るかもしれない。

それは分からない。

ただ、「許せない自分」という場所に、ずっと留まり続ける必要もない。

相手が変わらなくても。

過去が変わらなくても。

自分と、その出来事との関係は変わることがある。

僕にとって大切なのは、そっちなのだと思う。

僕らもまた、誰かにとっての「許せない人」になる

そして、ここまで考えていて、もうひとつ気づいたことがある。

僕らはいつも、傷つけられた側、許すかどうかを決める側にいるわけではない。

僕自身も、誰かにとっての「嫌いな人」や「許せない人」になることがある。

自分には悪気がなかったとしても、誰かを傷つけることはある。

自分ではたいしたことではないと思っていた言葉が、相手にはずっと残っていることもある。

自分としては誤解されたと思うことだってあるだろう。

必要なら謝ることはできる。

自分の振る舞いを見直すこともできる。

同じことを繰り返さないようにすることもできる。

でも、その先で相手が自分を許すかどうかまでは決められない。

自分に誰かを許さない自由があるように、相手にも僕を許さない自由がある。

許す側と、許される側。

嫌う側と、嫌われる側。

その役割は固定されていない。

僕らはその両方になりながら、人と関わっている。

だから人間関係は、「どちらが正しいか」だけでは整理できないものを残すのだと思う。

では、これからどんな関係を生きたいのか

「許せない」という感情の中身が少し見えてきたとして、それで終わりではない。

その先には、もうひとつ問いがある。

僕は、これから人とどう関わって生きたいんだろう。

過去に傷ついたから、もう誰とも深く関わらない。

一度嫌いになった人を、ずっと「嫌いな人」として置いておく。

それも選択肢ではある。

でも、それが自分の本当に生きたい人間関係なのかは、また別の話だ。

過去に何があったかだけから、これからを決めなくてもいい。

これから、どんな人間関係の中で生きたいのか。

どんなふうに人を大切にしたいのか。

自分はどう扱われたいのか。

どこでは境界線を引き、どこではもう一度誰かと関わってみたいのか。

そんな未来の側から今の感情を見直してみると、これまでとは違うものが見えてくることもある。

許す必要はない。

でも、自分がこれからどう生きるかまで、過去の相手や出来事に決めてもらう必要もない。

感情を受け取る。

その中にあるものを知る。

そして、自分の中だけで止めず、これから人や世界とどう関わるのかを選んでいく。

人との関係は、こちらから差し出すものだけでも、相手から受け取るものだけでもない。

その間を、いろいろなものが行き来している。

自分一人では、いつもの結論に戻りやすい

ただ、こういうことを一人で考えるのは意外と難しい。

「あの人が悪い」

「自分が我慢すればいい」

「こんなことを気にする自分がおかしい」

「早く忘れなきゃ」

あるいは、

「自分は悪くない」

「相手が勝手に傷ついただけだ」

考えているつもりでも、気づけばいつもの考え方、いつもの結論に戻っていることがある。

僕たちは、自分がこれまで経験してきたことや、慣れ親しんできた見方を使って、自分自身を見ている。

だから、自分一人では気づかなかった視点が、誰かとの対話によって入ってくることがある。

「それ、本当に相手への怒りだけなんだろうか」

「そのとき、本当は何を大切にしたかったんだろう」

「その感情の背景には何があるんだろう」

「これから本当は、どんな関係を生きたいんだろう」

答えを外から教えてもらうのではない。

誰かに「許したほうがいい」と説得してもらうのでもない。

自分一人では見えなかった角度から、もう一度自分を見る。

すると、ずっと同じだと思っていたものの中に、別の可能性が見えてくることがある。

感情は、なくすものではなく、受け取るものかもしれない

「嫌い」

「許せない」

そんな感情を持っていると、自分まで嫌な人間になったような気がすることがある。

逆に、誰かから嫌われたり、許してもらえなかったりすると、自分のすべてを否定されたように感じることもある。

でも、どちらもそれだけで自分のすべてが決まるわけではない。

感情の中には、怒りも、悲しみも、境界線も、願いもあるかもしれない。

何があるのかは、実際に見てみないと分からない。

だから、急いで許さなくていい。

無理に許してもらおうとしなくてもいい。

まず、自分の中で起きていることを受け取ってみる。

そして、そのうえで、

自分はこれから、どう生きたいのか。
人と、どんな関係をつくっていきたいのか。

そこから次の関わり方を選んでいく。

映画の中で、人を許せないところがあると語っていたノエル。

それでも今、リアムと同じステージに立っている。

もちろん、二人の間で何が解決して、何がまだ残っているのかは、本人たちにしか分からない。

そこに、きれいな物語をつくるつもりはない。

ただ、人と人との関係も、自分の中にある感情も、ずっと同じ形で固定されているわけではないのかもしれない。

変わらないものもある。

変わるものもある。

許せないまま残るものもある。

それでも、また受け取り合えるものもある。

それでも、ずっとWeだった。

映画を観終えて、そんなことを考えている。

一人で考えても、同じところを回っているときに

「嫌い」「許せない」という感情を、無理になくしたり、誰かを許したりする必要はありません。

ただ、一人で考えていると、どうしても自分がこれまで使ってきた見方や、いつもの結論の中を回りやすくなります。

ライフコーチング「渡り。」では、今ある感情や違和感、身体の反応も手がかりにしながら、自分一人では見えていなかった角度から、対話を通して一緒に見ていきます。

話していく中で、自分でも気づいていなかった感情や、当たり前だと思っていた前提が見えてくることがあります。

そこで大切にしているのは、「どうすればこの感情をなくせるか」だけではありません。

自分は本当は何を感じているのか。
何を大切にしたいのか。
そして、これから人や世界とどんな関係を生きていきたいのか。

答えを外から渡すのではなく、自分の中にあるものを確かめながら、その先を一緒に探していきます。

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ライフコーチング「渡り。」

自分の中にあるものを見つめ、
これからを実際の人生でどう生きていくかを探る対話。

「渡り。」では、悩みや違和感だけでなく、
まだ言葉になっていない願いや、これから生きてみたい可能性も扱います。

問いと対話を通して、感情や身体感覚も手がかりにしながら、
その人自身の感覚と思考を大切に、これからを一緒に探っていきます。

答えや行動を急ぐのではなく、
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実際の人生でどう生きていくかまで見ていくライフコーチングです。

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